2022年9月19日(月)の日記

その川には水位がわかる目盛りがついている。

両岸は護岸ブロックで覆われていて、そこに垂れ下がるような形で、ビニール状の目盛りが張られている。10cmごとの目盛りで、断続的に降る雨の合間を見計らって見に行くと、2m30cmのところまで水位が上昇していた。台風が日本海側から、列島を横断するように近づいてきているという。

川にかかる橋に立って、どぶのように濁った川の様子を見つめながら、ぼんやりとする。家からほど近い場所なので、雨が降り始めたらすぐに帰れる。背後から前方へ、川の水が流れる。いつもより、何倍も流れが速い。

5分か10分か、時間の感覚がなくなり始めたころに、川面になにかが見えた気がした。人の手? そんなはずはない、と思いながらも目が離せなくなる。いま、指の先のようなものが見えた気がする。ほら、指の先が、パーの形に開かれている、第二関節あたりまで2、3本、一瞬だけ――。そう思っているうちに、あっという間にその影は向こうの方へ見えなくなる。ごうごうと川の流れる音。急にまた雨が降り始める。霧雨とただの雨の、ちょうど間くらいの雨。頭皮に良いと謳う高額なシャワーヘッドから出てくるような大きさの水の粒。傘を持たずに家を出てきていたので、濡れてしまう。濡れてしまうが、その場から動けなかった。あれがもし本当に人だったとして、いまから走っても間に合わない。間に合ったとて、どうすればいいのかもわからない。通報をするべきだろうか、でも見間違いだったら? ――考えを巡らせているうちに、あたまの先からどんどん濡れてゆく。流されていったなにかも、どんどん離れてゆく。結局、履いていたスニーカーの靴底に、ひたひたと水が溜まり始めたころ家路に就いた。帰りしなに見ると水位は、2m40cmになっていた。

バスタオルで髪を拭きながら、先ほど目にしたものの話を伸二にすると、「そんなわけないじゃん」と一蹴された。ソファで携帯をいじりながら、「木の枝でも見間違えたんでしょ」「いや枝とかじゃなくて、もっと明るい色の、それこそほんと肌色みたいな感じだったの」「もし本当に人なんだとしたら、水面に出るのは指じゃなくてあたまなんじゃないの」「でも、川って水面から下の流れが激しいっていうから、もし溺れてたとしたらあたまは水面に出ないのかも」「もしそうだとしても、もう手遅れだから考えるのやめな」「手遅れって……」

落ち着かない気持ちのまま濡れた服をすべて脱ぎ、浴室に入る。高い方の留め具にかかったシャワーヘッドに、手をかける。伸二は身長が高いので、いつもシャワーヘッドは低い位置ではなく、高い位置に留められている。手を伸ばしながら、2m40cmって、どれくらいの高さかな、と思う。天井くらいだろうか、いや、もっと高いかも。シャンプーをしながら、「手遅れ」って言い方はないよな、と思う。でもそれは、私の気持ちの問題でしかなく、流れていった人には関係のない話だった。私が苛立っているのは、私のために苛立っているのであり、流れていった人のために苛立っているのではなかった。でも、苛々する。人の命を軽んじているような言い方。

浴室から出ると、伸二はまだソファで携帯をいじっていた。Instagramのストーリーを流し見しているのだろう、飛び飛びに無関係な音声が、次々と流れる。

「ねえ、さっきの話だけど」

言った途端、彼が嫌そうな顔をする。ちらりとこちらを見て、また携帯の画面に目を戻す。

「手遅れって言い方は、ひどいんじゃないの」

「だって現に手遅れでしょ」

「そうかもしれないけどさ、あの話したとき、伸ちゃん全然助けようとか、そういう感じにならなかったよね」

ソファのへりに載せた足が、小刻みに揺れる。貧乏ゆすり。伸二が苛々しはじめたのがわかる。それを見て、私も苛々が募る。

「助けようとしないくせに、手遅れとか言うのって違くない? 助けようとか思わないならせめて、私を慰めようとか、ないの」

伸二が携帯を床に置き、この話する意味ある? と言う。

「助けようとするとかしないとか、関係なくもう助かんないだろ。まずそれが本当に人間だったなんて俺思ってねえし。てか、優実が一番そいつ助けようと思ってねえじゃん。家の中にいた俺にはどっちにしろ助けらんねえし、助けようと思うなら優実がどうにかするしかなかっただろ。慰めるとか言ってんのも意味わかんねえし、結局自分の機嫌を俺に取って欲しいって話?」

「違くて、」

「もう一回言うよ? この話、する意味ある?」

私が言葉に詰まると、床に置いた携帯を手に取って、伸二は再び携帯を見始める。

嫌になって、自分の部屋に入る。勢いよく閉めたドアが、破裂音のような、ヒステリックな音を立てる。

じゃあさ。電気も点けないままベッドに体を投げ出して、心の内だけで、言う。じゃあさ、伸二はいまウクライナで起こってる戦争については、どう思うわけ。傷つかなくてもいい人がいて、でもどんどん負傷したり、死んでいってて、そのことも、なんとかしようとしても助けられないから、考える意味ないって思ってるわけ? 助けられるとか、助けられないとか、関係なく助けようとすることが大事なんじゃないの? 考えたって戦争は止まらないけど、でも考えないのは違うんじゃないの? 手遅れって言ってたら、なにもできないじゃん。それに――。

考えを巡らせるうちに、自分でも見当違いなことを考えているような気もしてくる。戦争とこれとは、また話が違う。でも、伸二のそういうところが嫌いだった。なんでも簡単に断ずるような言い方。

結局自分の機嫌を俺にとって欲しいって話?

先ほど、伸二に言われた言葉が胸に引っかかる。結局私は、自分のことを慰めたり、やさしくされたいだけなんだろうか。だとしたら、そのために人の命を引き合いに出すなんて、最低過ぎる。

がばりと起き上がる。また、自分の部屋のドアを開く。今度はヒステリックにではなく、やさしく。

玄関で靴を履く。先ほどのとは別の、真新しいスニーカー。なるべく走りやすいやつ。

外に出ると、雨脚は弱まっていたが、まだ降り続いている。さっきよりも風が強くなっている。

傘も持たないまま川沿いに出て、川下の方を向く。しゃがんで、靴紐をきつく結び直す。雨があたまを濡らす。首筋を濡らす。紐を結び直してから、思いっきり地面を蹴った。右足、左足、なるべく遠くへ足を着地させる。クラウチングスタートのような形になった、と思う。走る。走る。横目に映る、どぶ色の川。濁流の音、風のぼうぼういう音、足元の濡れたアスファルトの黒。

そのまま柵沿いを、走り続ける。ぜえぜえいう喉の奥で、かすかに血の味がした。走りながら、ビニール素材の目盛りの場所までくる。確認すると、それは2m40cmのままだった。なんのために走っているのかもわからないまま、私は川の先を見つめて走り続ける。激しく上下する視界の中で、人の指が見えないかを探している。私はそれが、見えて欲しいと願っている。心のどこかで願っている。それが正しいことなのかはわからない。正しいかどうかもわからないまま、願っている。

あったかもしれない指の先は川の濁流に呑まれて、私の目には、映らない。

2022年9月8日(木)の日記

だめだ、きょうはもう酔っぱらってしまったので小説を書けない。降参。日記を書く。

 

朝起きて、携帯を見ると「〇〇さんの44歳の誕生日」とあった。昔つきあっていた人の誕生日だった。

携帯のカレンダーに一度登録すると、毎年リマインドを投げてくれる。特に消す理由も思いつかないのでそのままにしている。そうか、もう44歳になるのか、と思って、つきあってたときは34歳だったよな、と思って、もうあれから10年が経ったことに気づく。10年かあ。10年とは、受精卵がきちんと自我をもった人間になるくらいの時間だ。それってどれくらいだ。酔っているのでよくわからない。ずいぶんと時間が経ったことはなんとなくわかる。けれど、これが10年なら100年なんてあっという間だ。こうしている間に100年が経つ、と、朝吹真理子さんみたいなことを考える。『きことわ』を読み、『流跡』を読み、そうして『抽斗のなかの海』を最近は読んでいる。彼女の書く小説が好きだから、『TIMELESS』を早く読みたい、が、絶対好きだからもったいなくて、もったいぶって先にエッセイを読んでいるのである。早く読みたいけど、早く読みたくない。なにそれ。贅沢。

 

年森瑛さんのことを考える。集英社がだしている文芸誌の「すばる」の巻頭エッセイが年森瑛さんだった。『春ごろから書いていた小説を完全に削除してしまった。』とそこには書いてあった。え? なにそれ? さらっと書いてあるけど、それってものすごくやばいことじゃない? と思う。世界遺産が燃えました、みたいな、不可逆的で取り返しのつかないなにか。絶対おもしろかったし、そんなものが消失してしまうなんて、やっぱりデジタルってこわい、とか思っちゃう。こんなこと言うと、でじたるでぃばいどだ、とか言われる、けどこわい。デジタルこわい。ぼくも、書いた小説は定期的にバックアップを取らなければいけないな、と思う。年森瑛さんが次に書くものが楽しみだ。好きな小説家が、どんどん増える。うれしい。愛してる、と思う。美しいものが世界に増えるのは、本当に素晴らしいことだ。だいすき。

 

3月に、文学賞に小説を応募した。先月文芸誌を見たら名前が載っていて、やったあ、1次選考を通過していた、と思って、周囲に自慢した。みんな、すごい、よかったね、と言って喜んでくれた。ありがとう、と思ったし、そんなふうに言ってくれてうれしかった。翌月号をみたら、2次選考も通過していて、さらに3次選考も通過していた。びっくりした。応募したあと時間を置いて読み返して、作品としての瑕疵があまりに多いな、と感じていたから。編集部の方に、無駄な作品を読ませてしまって申し訳ないな、とまで思っていた。でも、3次まで通過していた。「あ、通じるんだ」と思った。日常で他人と会話をするよりも、よっぽど強く他人と繋がれた気がした。選考が通過したこと自体は、「うれしい」という感情と正直それほど結びつかなくって、他人が作品を読んでなにかを受け取ってくれたことの方が、よっぽどうれしかった。4次選考を通過していれば、選考委員の小説家に作品を読んでもらえていたことを考えると、3次で止まってよかったようにも思う。

書いたもののできの悪いところをわかっているから、もっといいものを書ける自信がある。来年の3月締め切りの賞に応募して、それで受賞できれば、20代のうちに小説家としてデビューできる。ぎりぎり。20代のうちに小説家になりたい。

 

20代のうちに小説家になりたい。そう思うようになってしまった。書きたいものがたくさんある。小説家にならなくても小説は書けるから、そうして小説を書いていれば幸せだから、早く小説家になる必要なんて自分が幸せでいるためにはまったくないし、小説家に一生なれなくてもぼくは間違いなく絶対一生言葉を綴り続けるだろうけれど、早く小説家になりたい。ここ数日で急にそう思い始めた。そのためにはあと半年もリミットがない。もしも自分の思う美しいものが、ほかの人間にとっても美しいものである可能性があるなら、それに懸けたい。ぼくの恋を公に認められたい。早く小説と結婚したい。ふたりだけの世界でいいと思ってたのに、こんな気持ちになるなんて思ってなかった。ぼくは小説がだいすきで、小説の方はぼくのことが好きかわかんないけど、って思ってたけど、すこしはこっち振り向いてくれてるのかな、小説。早く結婚したいよ。早く小説と結婚、結魂、ケッコン、KEKKONしたいよ。好き、超好き、もっとこっち向いて欲しい、絶対にそこから動いてくれないけど、その動かなさが好き、つれなくても好き、超好き、愛してる。

小説と向き合っているとき、愛されてるって感じる。小説の神様がいて、「ぼくが一番小説のこと愛してるんすよ!!!」って叫んでも、「もっともっと愛しなさい」って言われて、たしかに、まだぼく一番だって言えないかもしれない、だってもっともっと愛せる余地を知ってる、って思って、でもぼくが愛した分だけ小説からも愛は返ってきて、それがわかるから、だからもっと小説を愛せるように成長したいな。もっと深く愛し愛されたい。小説と。言葉と、深くまぐわり合いたい。早く結婚しよう、小説。

なんやこの日記、あたまおかしいと思われそう。まあ、あたまおかしいんだけど。

もう寝よう。おやすみ。

2022年7月18日(月)の日記

夏は夜、と綴ったのは清少納言? 性消費納言?

ベランダに出ると夏の夜気が体にまつわりついて肺の底に植物の濃い呼吸の音が染みる。煙草を吸う人間だったらきっとこんな夜はベランダで気怠く煙をふかすのだろう、と思いながら干しっぱなしにしていたバスタオルを部屋へ取り込む。夜に取り込んだ洗濯物はいつも、夜の気配を身にまとっている気がする。気のせい? 風呂上りに夜取り込んだバスタオルで体をふくと、体が夜になる。なぞった部分が透けて、星空のようになってその先にあの子の孤独が見える。四次元ポケットみたいになったその夜の部分に手を埋めると、手は消えてぼくは宇宙になる。どんどん吸い込まれて、これはブラックホールだ、ぼくがなくなってしまうと思いながらも伸ばす手を止められない、そうやって虚無になる。星屑がいくつにも、いくつにも割れて、砕け散って、ばらばらになったりひとつになったりするのを永遠に眺めている。宇宙の番人になる。

昼に取り込んだ洗濯物はもちろん、日の光をまとって清潔。昼に取り込んだ衣服を着るときはその光が体に染み込んできて、あっけらかんとした自分になる。反対に、夜取り込んだ衣服を着ると、夜の人間になる。目に見えないアイラインが引かれてマスカラがばさばさ生えて、きっと、煙草をたくさん喫む人間になる。夜にふかす煙草の煙は暗闇の中で白くくゆり、吐いた息と同じくらいの湿度を帯びた夜気に、溶けるとも消えるともつかぬまま、見えなくなる。ぼくはその白さを目でなぞっているつもりだが、いつの間にか実際の視界に残るのは夜の暗闇ばかりで、いつまでも目の奥に残った白を追い続ける。目をつむる。羊羹みたいに甘い色をした夜の空に、架空の煙草の煙が溶けてゆく。ああ綺麗。綺麗だけど、この美しさを共有できる人はいない。世界中のどこを探してもいない。宇宙の番人は星の様子を眺めるばかりで、この地上のこのベランダから見える景色を知らない。ああ、これが幸せ。ぼくの幸せ。

 

誰も知らない幸せしか信じられなくなったのは、いつからだったろう。

大人になるってこんなにさみしくて気持ちいい。孤独を使いこなすようになったぼくらは、宇宙の果てへも、この世の果てへも、どこへでも、望まれるがままに望むがままに。

 

 

春はあけぼの。ぼのぼのかわいい。

このあいだ他人から顔面について「かわいい」と沢山ちやほやされる機会があったけど、なんか全然嬉しくなかったな。なんかもう顔面の見た目の話とかすんの言われる側からしたら全然オワコンだし時代遅れだしナンセンス~とか思ってたけど、昨日は目つき悪い人に目つき悪くてかわいい~とか言っちゃったし今日はめちゃめちゃ顔面がぼくのフェチですって人に興奮してかわいい~って言いたくなったりしたので全然人のこと言えないなってなったけどフェティシズムの「かわいい」を言いたいってのは完全に言いたい側の欲望でしかないんだなってこと自覚しました。「かわいい=可愛い」で「愛す可き」なわけだから斬新なかわいいじゃないとやっぱかわいくないんだよな~いつまでもつまんないかわいいに満足できない。

 

ねえ、年齢って重ねれば重ねるほど価値がなくなる、っていうことに世間的にはなってるの? めっちゃウケる~。ドキドキしてワクワクしてる時間が増えれば増えるほど魅力なんて増すに決まってんじゃ~ん! て心のギャル(誰?)が言ってるけど、そうか、ドキドキワクワクできない時間を積み重ねてばっかいるからきっと歳をとることが醜いってことと結びついているのか。永遠に同じとこで足踏みしてる感じ?

友達いても彼氏いてもお金あっても結婚してても仕事うまくいってても持ち家あっても宝くじ当たっても幸せになれない。ドキドキしてないとワクワクできないと生きてる意味を見出せない。一年近くかけて仕事から疲れて帰ってきたときや休みの日に愛する人と過ごす時間を潰してまで丹精込めて作り上げた小説をなにかの拍子に読み返して心底つまんない、って、主観的ではなく客観的に気づいてしまったとき「あ~全部無駄~」てなるけどそうやって得られる学びや気づきや煌めきを拾って生きていく、そうやってしかぼくは生きられないんだよこのことに病名をつけてください、絶対に名前で安心なんてしてやんない。

いろいろなことに名前がついていく、それはとても素晴らしいことであると同時に「わかってしまう」という病、それこそが一番恐ろしいことだと思うんだ。ぼくはあなたを、わからない。あなたはぼくを、わからない。見つけないで。誰にも見つからないところにしかぼくの幸せはない。見つけないで。

 

自由が貧しい。他人と意見が異なることは当たり前で、それを前提として話を組み立てなければならない。無視する? 説得する? 妥協する? 理解する? 教養がなければお話にならない。ぼくはなにも言えなくなる。でもなにも言えなくなることこそ一番、不健全だとも思う。なんでも言ってほしい。でもなにもかも言ったところで解決するの?

明るくて優しいこと以上に最強なことってなくないすか。

全然まだまだこんなもんじゃないだろ。まだまだ世界の先を見たいだろ。

 

 

人を好きになる才能だけはあるから、どんだけ世の中が腐っていようと幸せに生きていく。続けることにだけ価値がある、なら、あなたが生きている、生まれてからこれまで、生き「続けてきた」ということに価値がある。「生き続ける」ということが状態動詞であるならぼくは死にたい。才能がないことまだ誰にもバレてないから、まだここから始められるよねって、がはがは笑う。

2022年6月26日(日)の日記

本当に哀しいことは誰にも言えない。

哀しいから誰にも言えないんじゃなくて、言ってもどうにもならないから。

言ってもどうにもならないから、言ってもどうにもならない。どうにもならないなら、言う意味はない。命は美しい。美しいから命が終わることは哀しい。哀しんでいる人のことを、その哀しみに寄り添おうが寄り添うまいが、哀しみは哀しみのままだから哀しい。同情して欲しいわけでもない、救うことができないことに今更絶望するわけでもなく、哀しいことは哀しい。でも、哀しいことを哀しいと感じることすら、涙することに集中することすら、自分に酔っているだけのような気もして、自分の哀しみを哀しむことは気持ちいいから、気持ちよくなるために涙しているような気もして、でも涙してもしなくても哀しみは変わらなくて、それならと思って下北沢からの帰り道に自転車をかっ飛ばしながら泣いてしまった。イヤフォンの中でYUKIが歌ってる。警察に捕まってもどうでもよかった。無敵の人、というけれど、ぼくはもうほとんど無敵の人だった。愛する人が哀しんでいること、あの人にLINEを飛ばすこともしないで、なにも言えないまま、なにもしていないのと同じ状況でただ泣いている。お前がなにか変えられるのかよ、と言いたかった。言いたかった。なにも変えられないくせに。なにも変えられないくせにって言えば、なにか変わるような気がした。変えられる、余地がまるであるみたいに。別に誰のせいでもない。誰のためにもならない自分が気持ちよくなる文章をこうして打ち込んでいる。YUKIが歌ってる。歌ってる。歌ってる。

朝陽が昇る。金色の光がすべてを照らして、また美しい日が始まる。お腹の中の子は、愛を注がれて、注がれて、愛を力に、愛は無力に、夏が始まる、紫陽花はつい先日まで雫をすべらせて瑞々しかった、いまは夏の光に焼かれて、ただみすぼらしく、愛は愛のままに、なにも変わらない一日が始まって、ぼくはぼくのやるべきことをやるだけだ、やるべきことをやっているか、やっているか、やっているかってまた時間が過ぎていく、母と子の愛しくて愛しい一瞬が過ぎて、わからなくて、またわからなくなって、愛してるって言っても人は死ぬ、死ぬけど、生きて、生きてて、生きてて欲しいって、ただ生きてて欲しいってそんな残酷な願いごとを、残酷だって思っていてもただ美しいんだ。

だって、それが愛だから。

星を探して。星を探して。うずくまるのは、君の胸さ。

誰にもわかるわけがない、わかって欲しいわけでもない、あの子の胸の痛みを、痛みを、ただ分け合うこともできず、知ることももしかしたらできず、でもただ黙って見ているだけでは、いてもたってもおれず、ただ、ただ、指を伸ばして、言葉を探している。

言葉を探している。

ちょうど似合う言葉があったとして、それがなにになろう。なにになろう。それでも言葉が欲しかった。なににも、状況に似つかわない言葉でも、ただあげたかった。笑って。笑っていて。笑っていて。大丈夫。大丈夫って、なんの根拠もなくてもぼくが言ってあげたい、ただそれだけだった。背中に手のひらを回して、さすってあげたかった。なにも心配しないで眠って。そんなことは、到底不可能でも、眠らせてあげたい。おやすみ、おやすみ。ゆっくりおやすみ。

どうかゆっくりおやすみ。愛しているよ。ゆっくりおやすみ。心からの愛を、この過去から未来へ紡ぐ。未来に精一杯叫ぶよ。愛してる。

2022年5月31日(火)の日記

五月最後の日。きのうはずっとYUKI漂流教室を聴いていたから、今日も頭の中にその音が流れるんじゃないかと思っていたけれど、どんより曇り空でそのような軽快な曲は流れなかった。

朝は眠い。とにかく眠い。八時間、九時間くらい眠りたい人間なのに、睡眠時間を削ってまで日記を書いているのは、調子の良いときの自分を残しておきたいから。五月って良い季節だと思う。「風薫る」という言葉がよく似合う。緑が若く、夕暮れの空の色はパステルカラーでかわいらしく、気温も過ごしやすくて、好き。前までこんなに五月好きだったろうか。「好き」って、いつも後から自覚するよね。好きになろう、とかじゃなくて、気づいたら好きになっちゃってる。恋しちゃったんだ~たぶん~気づいてな~いでしょ~(これはYUKIじゃなくてYUI、でもなくて実は向井秀徳)。

 

 

ここ数年はいつも、六月になると心が不安定になることが多かったから、六月を迎えるこのタイミングからすこしドキドキしている。気温なのか気圧なのかバイオリズムなのかわからないけど、六月は不安定。六月も好きなんだけどな。すこしずつ暑くなってきて、雨も多くて、紫陽花が綺麗で。青い花が好き。悲しみを、一緒に悲しんでくれているような気持ちになるから。一緒に、というのは、一緒の悲しみを悲しんでいるのではなくて、紫陽花は紫陽花の悲しみを悲しんでいるような気がする。それがなんだか美しい。デルフィニウムを買って愛でていたのは何年前だっけ。もう忘れた。

不安定な気持ちっていうのもすこし好きで、わざと悲しい気持ちになったりすることとか、ないですか? 酔ってみるというか、悲劇の主人公ぶるとかよくあるじゃないですか。そういう感じ。そういうときは安定しているときには出せない感性や自分が出てくるじゃないですか。それをわざと見てみたいというか、別に気にせずに流してしまえるようなことをずっとしつこく気に留めて、深堀りして、自分の傷口を延々といじくり回し続ける、みたいなことを六月はしてしまいがちで、インターネットで良くない情報にアクセスしてみたり、やたら人と繋がってみたり、そのくせ自分の殻に閉じこもってみたり。そういうとき安心の自分と不安心の自分を、自由にスイッチングできると思っていたのに、いつの間にか不安心の自分からもとに戻れなくなってしまっていたりして、あれ、本当の自分というか、自分の本体を安心側に置いていたはずだったのに取り残されてる、まずい、まずいぞ~、ってなってしまって、じたばたする感じ。でもやっぱりぼくは、安心の自分に軸を置いていたいと思うし、それで他人に優しくできなくなったら元も子もないので、今年はもっと自分の中にいるマスターの自分に手綱をしっかり握らせておきたいと思います。自分を自分のコントロール下に置いておきたい。

 

 

六月は昔好きだった人の誕生月だな。

 

 

ビジュアルというかビジュアライズされたものって良いな、という気持ちがむくむくと膨らんでいて、服とかも勿論だけどさ、やっぱり髪とか顔とかもその人を表現しているもののひとつだと思うんだよな。大前提、「所詮見た目の話」であって、本質的な価値とかは目に見えないものなんだけど、価値という目に見えないものがビジュアライズされるとその表面には人間の肌だったり服だったり髪だったり筋肉だったり動作だったりが出てくるわけで、そう考えるとやっぱり「所詮見た目の話」ではなくて「大切な見た目の話」として大事にしたいという考え方もありだよね。表現としてのビジュアル、であるならそれは勿論良い悪いの判断は出てくるわけで、ただの表現でもなんでもないビジュアルに良いも悪いもないのはそりゃ当然過ぎる話なんだけど、うーん、ビジュアルについて話するのって難しいよね。さらに面倒くさいことに表現でもなんでもないビジュアル(=形状や質感や色)であったとしても、そこにタイプというかフェティシズムとかは存在するわけだもんね。なんかフェチの話を大衆に対してするのってナンセンスというか、それを楽しみたい人だけで話す方が全体的に幸せじゃない? と思うんだけど、表現としてのビジュアルについて話す人とビジュアルについて話すのであればそれは必然フェチの話ですよねと感じる人とが同時にいて、後者の中にもそのビジュアルが表現としてか表現ではないものとしてなのかを意識してる人としてない人のレイヤーがまたあって、すごく「ルッキズム」という言葉が浸透したことによって言外に「この言葉を使ってるってことはみんな同じレイヤーで話してるよね~」ってなってその勘違いの前提で混乱が生まれてる、みたいなことはありそう。

女性の顔の個人的なフェチはベイビーフェイスなのかもと最近気づいたけど、表現としては強く光る目を持っている方が大好き。そんなことを、この文章を書きながら思ったりした。

 

 

五月の日記を書いている途中で、日をまたいで六月になった。今度、大切な友人とクチナシの花の香りを探しに行く予定を立てた。六月はクチナシの季節。六月って、ドラマチックな季節だよね~。真夏みたいにそのドラマチックさを昼間の熱でちゃらにする潔さもなくって、すこし湿っぽくて、でもまだ初夏の爽やかさもすこしあって、青い花が咲いていて。

なんだかんだで、ぼくは六月が好きみたい。おやすみなさい。

2022年5月30日(月)の日記

朝目が覚めたときから、頭の中にYUKIが歌う『漂流教室』が流れていた。銀杏BOYZの曲をYUKIがカバーしたやつ。家を出てピカピカの朝の光の中、駅までの坂道をこの曲を聴きながら走った。世界はただ輝いている。当たり前の景色の中に、どれだけの幸福が含まれているだろう。

ついさっき一瞬外にゴミ出しに出たら犬が光っていた。首輪かなにかにピカピカ点滅するライトをつけられた犬が二匹散歩していて、一匹は赤、もう一匹は青に光っていた。「え、なんで?」みたいな顔をして歩いている様はかわいらしかったけど、ずっと視界に点滅する光があるのは犬側からしたらえらく迷惑なんじゃないだろうか。犬が車にひかれたりしないような安全装置なんだろうか。

 

 

言うべきことを言う、ということが苦手なんだけど、今日は仕事でそれができた気がする。頭の回転が遅いので、瞬発的に言うことはできないのだけど、ねばって、現状の問題点を伝えられた。不必要に阿らず、やるべきことをやるのである。仕事なのだから。愛想よく、って、それは処世術かもしれないけど仕事の目的は別の場所にあるはず。もっと考えるべきことがあるのだ。仕事は他人と共通の目的に向かってやっていく場だから、学びの場だ。苛々したり怒ったり悲しくなったり、そういうのがなにもない場所でのんびりやるよりも、そういう感情が発生する場にいることで学べることって絶対ある。ご機嫌に余裕を持って生きたい。仕事以外のときはご機嫌余裕しゃくしゃくだけど、仕事のときはそうじゃない、って、なんか違うと思うから。

 

 

自分が誰か人の話を聞いたときに、その人が「辛い」「苦しい」を言う前から「辛かったね」って言いたくない。ぼくは、それをよくやってしまう。その人が辛いか苦しいかは、その人が決めることであってこちらが決めつけることじゃない。寄り添うのって正しいのかな。もっと寄り添って欲しい。もっと寄り添いたい。「寄り添いたい」という欲求を、「わかってほしくなんてない」人間にぶつけてしまえばそれはもう暴力だ。優しくしたい。優しくされたい。人間が人間を「救う」なんてことができるのかな。ぼくは誰も救えない。救えないけど一緒にならいられるよ。肉体で。言葉で。同じ地球で。ね、そうだよね。

 

 

通勤のとき、いつも同じ時間に会う白杖の方がいる。通勤の時間ってみんな急いでるし、どかどかぶつかるし、けっこう容赦なくって、見かけたときは「一緒に歩きましょうか」と言う。ぼくと一緒に歩いているとみんな意外と道をよけてくれる。ぼくと一緒に歩いているから、ではないのかもだけど。はたから見たときにはぼくが「助けてる側」で、白杖の方が「助けられてる側」になるのかな、と思うけどなんか癪だ。いつだって助ける側は、助けることで「自分が誰かの役に立てている」「自分には価値があるのだ」と思わせて「もらっている」。助けられてる人は、助ける人を助けさせてあげている。助ける側の方こそ感謝をするべきじゃないか、とよく思う。同じ時間に通勤(向こうは通勤じゃないかもだけど)する人としての親近感だけでなく、感謝させてもらっている敬意みたいなのがある。強者と弱者、みたいな構図はいつも違和感があって、切り取る側面でそのように見えるだけで、人間は全員が対等であるはずだ。

 

 

変えられないもの。他人・過去に起きた事実・瞬間的な感情。

変えられるもの。自分・過去に起きた事実の解釈・思考・言葉遣い・行動。

未来はまだ起きていないから、変えるも変えないもない。変えられるものに属する思考は行動になる、行動は習慣になる、習慣は運命になる。運命は変えていける。人生は変えていける。変わっていくのが人生、とも言える。

変えられない宿命というものがあるとして、生まれた場所、家族構成、その他諸々、そうかもしれないけど、人生は自分で変えていけると思う。かわいいはつくれる? 知らないけど、人生の方がつくれる。すべてが思いのまま、ということではなく、思い通りにならないことばかりでも、人生はつくれる。物語はつくれる。好奇心でも攻撃性でもいいから生きて生きて生きて、いつかあなたの話を聞かせてほしい。それを見たい聞きたい味わいたいというぼくの好奇心がぼくを生かしていく。

すべての偶然に意味なんかなにひとつなかったとしても、愛と未来の詩をうたおう。意味のある偶然を紡いでいこう。同じ時代、同じ地球にいる、同じ人間。ぜんぜん違う人間。たったひとりの私、たったひとりのあなた。おやすみなさい。

2022年5月29日(日)の日記

電気を点けたままリビングで寝落ちてしまっていたから、朝方ベッドにもぐって眠り直す。起き抜け、自分の魂が上空に浮かんでそのままどんどんと上昇し、大気圏を突破して宇宙空間に飛んでいくというイメージを持った。夢ではないが、想像ともまた違った感覚。宇宙空間でぼくはたったひとり(というか魂なので、たったひとつ、という感じ)、そのとき胸に去来するのは不安なのか自由なのか、不安だとしたらなにが不安なのかを見つめ直す。ぼくは自由なのだ、と言い聞かせてみる。なにが不安なんだい、と自分に問いかけてみる。死ぬとき、どんなに愛している人がこの世にいても、いなくても、ぼくはたったひとりでこの世を去らなくてはならない。なにも残してはいかれない。あらゆる絆や執着は、手放していかなくてはならない。いつか手放す。それは大事にしないことではなく、むしろ毎日を大切にすることに繋がっている。悔いを残したくはない。いつか死ぬから、そしてぼくはそれを悲しいと思うから(そしてちょっぴり淋しいと思うから)、いまを精一杯生きる。大げさなことではなく、真剣に生きる。すこしずつ成長したい。まだ怖がる自分がいる。なにが怖いんだろう、と、また問い直す。自由を感じられるようになってから起きる。自由を感じられること、それは、良い予感を感じることに繋がるのだと思った。それは、ワクワクするということ。死ぬまでワクワクした~いわ~(YUKI)。

 

 

五月にしてはとても暑い日だった。昼間に外に出ると日差しの強さに目が眩む。

きのうは夜遅くまで読書会の人たちとZOOM飲みをしていたから今日は遅起きで、ゆっくり眠っていたら正午過ぎになっていた。読書会ではぼくの大好きな『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著)が課題本だった。面白い会だった。英語タイトルは “The Art of Loving” だ。アートの語源が「アルス」という言葉で、「技術」という意味を持つのだが、特殊で専門的な技能のことではなく、それがないと共同体が成り立たないというような、必修のものとしての技術、という意味らしい。たしかに、愛は人類の必修科目なのかもしれない。

戦争で、ロシア国内ではどんな小さな独立集会でも徹底的に潰されているのだと聞いた。人間はどこかに所属していたいという欲求があるから、国家や国家の下位組織以外の独立集会が成立してしまうと、その独立組織への帰属意識を持った人間が国へ反旗を翻すかもしれず、どんなに小さな集会であっても独裁者にとっては脅威なのだそうだ。そういった集会が禁じられてしまえば、自分たったひとりだけが「はぐれ者」として国家に反逆する、という選択肢しかなくなるが、そんな重圧を抱えながら生きるのは容易なことではない。プロパガンダの仕組みも同じことで、「いまこれがメジャーな価値観です」「これが多数派」ということを先に提示することで、もしその情報を受け容れる側がほかの情報へアクセスできなくなっている場合、現状がそうでなくともあとからそれが現実になっていくそうだ。人間は孤独に耐えられない。

ぼくは常に孤独を感じるし、もしも愛がなければ発狂してすぐにでも死んでしまうと感じる。「現代においては死ぬほどの孤独なんて存在しないのでは」と言っている方がいた。「孤独ってそんなに悪いことなんでしょうか」と。ぼくも孤独が悪いものだとは思わない。正確に言えば、良いとか悪いとか価値判断を下すのはその人自身で、「人間が孤独である」というのはニュートラルな事実だと思う。良いものにも悪いものにもなり得るもの。主催の方が「孤独という言葉の意味が、使う人によって違うのかもね」と言っていた。そうなのかもしれない。でもそうか、みんながみんな死ぬほどの孤独を感じているわけではないのか、と、まあ当たり前なのかもしれないけれどそんなことを思った。

ぼくにとって、孤独はいつでもここにあって、畏敬の念を抱くほどに恐ろしいもので、それとたったひとりで向き合わなければいけないことが不安で、弱い自分にとってはときに持て余してしまうもので、だからこそ人や自分に優しくしようと思える源でもあって、大事にしたいものなんだと改めて実感した。ぼくにとって、孤独と自由と愛はひとつのセットだ。孤独がなければ自由も愛もない。『愛するということ』、ほかの方も仰っていたけど、たしかにぼくの価値体系があの本によって組み変わっているのかもしれない。価値体系が変わるということは人生が変わるということだ。ぼくはあの本を読んでから、愛とは成熟した人間の世界に対する態度であるとずっと考えている。愛のある人のことを見て、愛のある人の話すことを聞いて、愛のある人の創り出す藝術に触れて、ぼくは生きる勇気をもらってきたから、ぼくも愛のある人になって周囲に勇気を与えたいと思う。人間としての成熟をいつも一番に考えている。

 

 

昼過ぎに起きたあと、キャロットラペと胡瓜のみそ和えと納豆、母親が送ってくれた茄子の漬物と餃子で昼ごはんにした。キャロットラペは簡単でおいしい。酢と同量のオリーブオイル、砂糖と塩、たっぷりのこしょう。これだけでいくらでも食べられる。

夜はこれまた母親の送ってくれた鶏もも肉を照り焼きにした。醤油とみりんと酒と砂糖。焼くのはヘルシオにお任せして、ちぎったレタスと薄切りにした林檎を添えた。

しなければならない振込みや掃除、洗濯をこなし、股関節のストレッチをし、木村カエラのアルバム「いちご」を初めて歌詞カードを見ながら聴いて泣き、自分でつくったごはんを食べる。当たり前の生活かもしれないけれど、それが一番大切。生活力がない、という自覚があるから、自分できちんと生活をできるようにしていきたい。退屈しないこと。散漫でまとまりを欠いた生活ではなく、規律を保った生活を送ること。これも愛するために必要なこと。

 

 

年齢も、性別も、名前も、経歴も捨てて、まるのまま、自分がそこにいるのなら、ぼくはそれでも軽やかに笑って立っていられるだろうか。「勇気」という言葉にピンとくることがしばらくなかったけれど、いま一番欲しいものは、もしかすると勇気なのかもしれない。もっとたくさんの素晴らしいものを見て、勇気をもらいたい。自信を持ちたい。

久しぶりに10分ほど瞑想をしたけれど、やはり全然じっとしていられなかった。10分後にセットしたタイマーよりも先にヘルシオが「鶏ももの照り焼きできたよー」という合図のピピピを鳴らしたのですこし笑ってしまった。宇宙空間にたったひとりだとして、うろたえず笑っていられる強さが欲しい。おやすみなさい。