坂口恭平日記 感想

熊本に着いて、空港の外に出ると気持ちのよい風が吹いていた。陽射しの強さに反して涼しさすら感じる。

シャトルバスで市内へ向かいながら植物の多さに感心した。生えている木はどれも力強く、茂った葉を風に揺らし、そのひとつひとつに光が反射してさざめく姿は圧巻だった。東京にはない光景。なんだろう、光が東京のそれとはまったく違う。強くはっきりしていて、空の青さが強い。鮮やか、というのも、彩度が高い、というのも違う。なにか力強いものを感じた。葉のひとつひとつ、草の一本一本が光を反射して、細かくうごめく。道が広く、空が広い。

 

以下、熊本市現代美術館で開催されている展示『坂口恭平日記』に行った際、その場でLINEのKeepメモ(自分宛にメモ用のLINEを送れる機能)を使ってその場で書いた感想。リアルタイムに書いたから、読み返すと「言いすぎているな」と感じることや破綻した日本語もあるが悪しからず。

 

時系列順に記載。

 

 

4/8(土)快晴

“広い絵。開かれている絵。

光が描かれており、時間的な広がりを感じる。海に光が差していれば、やがて暮れていく日の動きやその色を映す海面の姿が脳裡によぎる。しかし、その絵に捉えられているのは暮れる海ではない。

 燦々と日差しの降り注ぐ青さ、眩く反射する光。その一瞬なのだと思う。やがて移り変わっていく景色、生活、時間的にも空間的にもひらかれていて、これから食べられるだろうケーキ、これから汚れるだろうお皿、それに繋がる部屋、海は一辺だけでなく360度広がっているように思う。ただその一点に焦点を当てているような気になる。集中してしまったときの景色のような。”

 

“少し離れた位置から見ているのだが、そうすると隣の絵の色彩が目に入ってくる。ひとつの絵に集中しているつもりでも、隣の、鮮やかな(くすんでいたとしても決定的な)色が目に飛び込んでくる。そちらへ注意を向ける。そうして次々と視線が移っていく。自分の目にパッと入って、そのときその瞬間の気分で良いと思った絵へと移りたくなる。”

 

“そこには別の世界が広がっている。”

 

“絵によって上手い下手がある気がする。”

 

“ずっと眺めていられる。空をずっと眺めていられる感覚と近いかもしれない。勝手に絵の月が動き、沈み、雲が動き、流れ、その奥にある景色を見たいと思う。時間の流れが愛おしくなる、それでいてその一瞬一瞬が愛おしくなる。”

 

“絵を見て「絶景だな」と思う。暮れていく夕闇の空気、震えて光る月。”

 

“同じ景色を見ていると思う。坂口恭平と同じ場所に立って、同じ景色を見ている。”

 

“暑い日だろうと思う。陽射しは激しく、植物が生い茂っている。

 木々の影が道へひたと落ち、植物の影にいると空気が途端にひんやりと湿り気を帯びるが、陽射しはやはり、強い。”

 

“基本的にはずっと3メートルくらい離れて見ているのだが、近づくと途端に鮮明さは失われぼやける。いま書いていて思ったのだが、これは不思議なことだ。近づくとぼやけるのだ。この絶景はどのように描かれているのかと思い、その正体を、種明かしをして欲しいと願って近づくとぼやける。パステルの粗いタッチがそこにある。色彩も思っていたほど鮮明ではない。しかしその色と色の明確な境目、赤と青の境、がはっきりと力強く描かれている。細かくはないが、強いのだ。それが遠くから眺めることで、脳が光を捉えるときのその強さが再現されるのか。”

 

“熊本を訪れたとき、光の強い土地だと思った。熊本市内へ向かうバスの中で、木々の揺れる葉、そこに反射する光のさざめきを見た。草むらは風に吹かれ細かくどよめいた。細かすぎるものは認識しきれないという脳のバグが起きたかのように、葉や草の揺れる様子はうねうねと何か細かな生き物が触覚をなめらかに動かしているかのようであり、気持ち悪く、そうして圧倒的だった。パソコンのデータで3Dで再現して処理落ちした感じの、なめらかだけれどどこか飛び飛びで、夜中のテレビの砂嵐の白黒がうねうねと蠢くような様子に見えた。視界は常に世界を粗く捉え、それをそのまま坂口恭平は描いているのかもしれない。近くで見ると粗いのだけど、描くときは必然近くで見ながら描くわけで、意味がわからない。”

 

“人は嫌なことがあっても青空を10秒眺めると嫌なことを忘れられるらしい。坂口恭平の描く青は、それと同じような効用があるように感じる。ただずっと、訳もなく、眺めていることができる。それは自然の色や光をそのまま写しとっているということではないか。なんだそれ。”

 

“隣に人がいて、同じ景色を見ているみたい。「綺麗だねー」て言って、ずっと眺めていられる。なんだこの展示は、天国か。”

 

“絵を見に来た、というよりは「美しい景色を眺めに来た」という感じがする。”

 

“とてもじゃないがこの点数を見切れない”

 

“多分展示の高さもちょうど良くて、目線の高さが水平線の高さになっていたりする。途中にある椅子に座って作品を見ると水平線の位置が上になり過ぎてなんか違った。”

 

ちゃぷん、ちゃぷん、と水の音がする。”

 

“美しい景色を眺めて、何度も何度も、その正体を知りたくなる。近づいて見る。懐かしく力強い色たちが並んでいる。”

 

“この世界の美しさを思い出しにいく展示。”

 

“目が霞んでくる。トリップする。近づく。絵の世界に入り込む。自然への畏怖。山の恐れ多さ。圧倒的なもの、自然、世界への恐怖、そして美しさ。”

 

“自画像。ポートレート。アイコン化されたものと内省の世界へ。”

 

“明るくて鮮やかな黄色の空と、濁りマットな質感の紫の沼、湖、境目に生い茂る緑。”

 

“絵をカメラで撮る人々には懐疑的だ。その写真を誰がいつ見る?自分のカメラで見つめフィルターを通し味わうべきだと思う。”

 

“ユーモアとかわいらしさと鮮やかさと哀しみを感じる絵の群。”

 

“内省からくすんだ景色はやがて鮮やかな外の世界へと向かう。”

 

“光を描き始める。”

 

“黒い雲たちをやがて夜が包み、塗り潰す。”

 

“近づいて見ると懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。”

 

西加奈子の「あおい」の解説にて山崎ナオコーラが「フィルター外し」と評したが、坂口恭平の絵にもそれと同じことが言えそう。”

 

“それにしてもすごい絵の数。”

 

“そんなことを言いつつぼくも写真を撮りたくなってくる。この景色を持ち帰りたい。”

 

“ずっと見ているうちに段々、世界が絵を近くで見ているときのようなタッチで見始めている気になる。原色で、強く、美しく。”

 

“優しい絵、やわらかな緑、青、目に優しい。”

 

“人の世界に人非ざる者の世界が混じり合う。”

 

“生活への愛おしさが溢れ出ている。”

 

“時折挟まれる抽象画が異彩を放っている。本当に見えている景色として、差し挟まれる。”

 

 

4/9(日)快晴

“綺麗な景色に出会ったとき、日常の中で立ち止まることは少ない。けれど逃し続けてしまったその一瞬を保存してくれているかのような絵画の、瞬間の数々。瞬間の集積が時間で、時間の集積が人生なのだとしたら、この美しい絵画の数々は美しい人生をまざまざと目の前で見せられているような気すらする。”

 

“波の絵をずっと眺めていると、船酔いしたように胃が浮遊してゆらゆらとちょっと気持ち悪い。でも綺麗。”

 

日本画のような陰の深さ。でも日本画のように湿り気はなく、確かで強固な光景がある。光が描かれているからか。”

 

“ともぶれしていくにんげんのかたち。見る角度によって絵柄の変わるカードのように、五重、六重にひとのかおのかたちが重なっている。”

 

“どの人も静かな佇まいをしているように見える。攻撃性を持ち合わせていない、もしくはそういうモードではない人間。落ち着き、湖のように静かな。でもそれは哀しみに似ている。”

 

“思い出の中の人。”

 

“光と、水と、風。”

 

“作為を感じない。具体と抽象のあわい。”

 

“いい風景の中にいるように、欠伸がでる。”

 

“小さくてもどでかい絵。”

 

“絵を見てまぶしい!と感じる。なんだろうこれは。”

 

“走馬灯みたい。”

 

“その日の気温や湿度までわかってしまう。”

 

“水の絵。ずっと動いてるから船酔いみたいに酔う。”

 

“風がどっちから吹いてきているかも、水がどっちに流れているかもわかる。”

 

坂口恭平eyeを、ちょっとだけ手に入れられた気になる。”

 

“絵を見て、景色の中にいるとき、ひとりで見ている感じがしない。必ず、誰かが傍にいる。それは作者?それとも別の?”

 

“「写真みたい」という人がたくさんいてなんだか辟易。”

 

“アトリエのエリアにいくと照明が暖色系。調光がいい。”

 

“見るということは食べるということ。体内に摂取し、何物かを残し、そうして出て良く。光。そして私が変わる。”

 

“熊本城の石垣みたい。色とりどりの石垣、月のカケラ、反射、鏡、青紫色をした優しい闇。”

 

“切り貼りしてるゾーン、近づいてもぼやけないのがいいね。”

 

“光と陰が明瞭。”

 

“近景って感じする。”

 

“切り貼りとパステル画の良いところがどんどん上手く組み合わさっていく。その流れも含めていいな。初めは抽象的な題材から徐々に具体へ近景へと進み、やがてそれらが自由自在になる感じ。見てて楽しい。”

 

“斜めから見た時の立体感がすごい。象嵌ていうの?風景画をそれでやるとすごいね。”

 

象嵌いろんな角度で見られる。楽しい。”

 

象嵌は純粋なパステル画よりも固定感が強い。時間が流れていく感じが弱まる。でも物体の物体感が強くなる。物の存在感。影の存在感。ごろごろと物が転がっている。”

 

“風景画の中に象嵌。なんじゃこりゃという感じ。なんじゃこらずっと見ていられるぞ。奇妙で心愉しい。夕暮れに透ける(透けない)色の正方形と無限の角。”

 

“アトリエゾーンの最後の五つすげえな。目みたいな機械も生で見られてよかった。”

 

“抽象と具象がどんどん混濁して平然と同居してる感じ格好いい。見たままを描いてるんだろうな。”

 

“「目」が彼にとって大事な部位なのだろうか。人を捉えるとき目を中心に据えている?心象風景の中に浮かぶ物の中に人がよぎるとき目が映る。”

 

“改めて見ると天井も高いし余白もすごく広くとった展示なのに、全然そんな風に感じなかった。それはひとえにひとつひとつの絵がもつ空間の広がりと時間の流れのせいなのだろうと思った。”

 

象嵌で取り入れた技法を絵にも適用していたりしてすごい。どんどん色々挑戦して色々なことができるようになっていくその過程までもが見える。勇気がでる。”

2023年4月7, 8, 9日の日記(死の欲動、生の欲動)

2023/4/7(金)東京 深夜

乗り換え駅で停車している電車。

電車の端の席で仕切り板に寄りかかるように眠っているひとつの肉塊がある。

まだ26歳くらいだろうか。顔には幼さが残る。髪は直毛で全体にボサボサと広がり、眼鏡をかけている。心底安心し切ったように口を開け瞼を閉じており、口の開き具合を見るとそこに指を入れたくなる。黒い穴。

向かい側の列の端の席、彼の真向かいに座ると少し上向きの顔に拭ったように鼻血の跡がついているのがよく見える。それは鼻から左方向へと掠れて続いている。鼻の穴と穴の間の肌に、強く赤色が残っている。ぶつけたのだろうか。彼は泥酔しているのか微動だにしない。白いイヤフォンが耳から続いて足元へと伸び、それはどこにも繋がっていない。刺されなかった充電ケーブルのように、太ももから垂れ下がっている。呼吸をしていたら少しくらい肩が上下に動きそうなものだが、彼は微動だにしていない。ように見える。私も酔っているから視界が揺れており、彼が肩を上下させているのか、呼吸し肺を膨らませているのかがわからない。自分の呼吸のせいで自分の視界が上下する。彼が呼吸しているかどうか、生きているかを判断するために自分の呼吸を止める。死んだように止める。しかし尚も視界は酔いでぐらぐらと揺れており、彼は死んでいるように見える。見えるだけではなく、本当に死んでいるのかもしれない。電車の端の席に、死体が載っている。両の鼻の穴が、開いた口の奥が、やたらとぽっかり黒く見える。

 

目の前に死体が座っている。

 

進行方向右側ドア閉まりますというアナウンスが流れるが停車しているからどちらが進行方向なのかわからない。左へ進むだろうかだとしたら奥のドアが閉まる、と思ったら手前のドアが閉まって、この電車は右に進むのだとわかる。停車しているのに、進行方向右側のドア。ドアが閉まって初めて、これから進行するだろう方向がわかる。

目の前に死体が座っている。

 

死体は途中から肩が上下し始め(私の酔いが醒めてきたのか)、終点で駅員から回送電車になりますからと言われ、それでも生き返らず駅員に立たされていた。私はそこまで見届けてから離れた。死体がその後どうなったのかは知らない。

 

4/8(土)成田 昼

成田空港の第3ターミナルは遠い、ということを思い出す。昔、大阪から来た男を見送った後、果てしなく続く通路をひとり帰ったのを思い出す。たしかそのとき、空港の本屋で西加奈子『ふくわらい』の文庫を見つけ、おすすめした記憶がある。その男は律儀に買って帰ったが、読む人を選ぶ小説だし、彼が楽しんだとは思えない。

一昨日羽田空港に行ったときも思ったけど、空港は外国人が多い。当たり前かもしれないけれど、東京の窮屈さから抜け出せるような気がして僅かずつ高揚感が高まる。

機内で金原ひとみマザーズ』を読み、眠る。

 

4/8(土)熊本 宵

昼前にサンドイッチとおにぎりひとつを食べたのみだったため空腹だった。

スリランカ料理屋に入る。本日のスープ、チキンとダールのカレーを注文。タンカレージントニックを注文したが、ジンがいまない、とのことだったためウォッカトニックを代わりに頼んだ。

カレーは1辛~5辛は無料で頼めて、6辛以上だと有料になる。4辛で、と言うと、辛いの大丈夫? と訊かれる。大丈夫、と微笑もうとして口角がうまく上がらず、疲れているとそのとき気づく。

4辛は想像以上に辛かった。次郎系を食べるときみたいに味わうよりも早く次々とスプーンを口元へ運んだ。体力を使う食事だ。ウォッカトニック一杯でまあまあ酔う。

店を出ると肌寒く、夜が黒かった。土地の陰陽の激しさを感じる。死の欲動が強まる。黒いアスファルトへ倒れこみたくなる。

 

4/9(日)熊本 朝方

デスゲームをしている夢を見た。狭い通路を複数人で走る走る走る逃げる。振り向くこともできないほど必死に走ってしかし次の瞬間死ぬかもしれない、自分が死ぬかもしれない、とかなり切迫した気持ちで目を覚ました。目を覚ましてもしばらく、死の恐怖が消え去ったとは思えず、しばらくベッドの上で身を縮めていた。

 

昨日に続き快晴。焼けるような強い陽射しが肌を刺し、信号待ちをしながらホテルを出る前に日焼け止めをたっぷり塗って正解だったな、など考える。

美術館の近くのパン屋から芳しい匂いがして、つられて入店した。サンドイッチとトロピカーナマルチビタミン)を購入し公園のベンチに座って飲食する。銅像に偉人が並んでいて、それを写真でパシャパシャ撮り続けるおばさんがいた。

熊本城へ向かう道すがら、頭がくらくらする、と思った。空ってこんなに青かったっけ、と思う。すべてが眩く、色がはっきりとしている。輪郭が強固なまま揺れている。

綺麗な曲線を描く石垣を眺めながら、茂った木々の根本の地面を見ながら、そこに血が染みこんでいるような気がする。血の匂い、とまでは言えないが、歩いているだけで鳥肌が立つ。えずきそうになる。鮮やかで美しいが、その裏にたくさんの血生臭い戦いがある。西南戦争。陽がはっきりと強い分、また陰も色濃い。熊本城の暗がり通路。地下の、暗く湿った匂い。

入場のとき「失礼ですが高校生以上ですかー?」と訊かれ、少なからず嬉しくなってしまい自分の卑俗さを感じる。大人です、と答える。私は大人です。

 

4/9(日)熊本 夜

ホテルで自分の書いた小説を読み発狂。しばらくのあいだパソコン画面に意味不明な文章を打ちこむ。自分の自我が、エゴが、憎かった。エゴを殺したいがエゴがないと文章が書けないというパラドクス。書いても書いても満足できない。本屋に行けば素晴らしい文章が溢れていて、夕方書店を訪れた際は大層うきうきした気分でその空間に身を浸したのに、自分の小説を読み返した途端に自分が存在して書く意義などこれっぽちもないような思いに駆られる。存在する意義が砂のようにぼろぼろと崩落して塵が風に吹かれ消え去る。自分の価値がなくなる。それがいっときのことだとわかっているから大音量で音楽を耳に流し込んでベッドで死んだように横になる。目をつむる。受動的に音楽を聞く。やがて起き上がり音に合わせ踊る。死体のまま踊る。鏡を見て自分の形を確認する。4/7(金)の深夜に自分宛のLINEメモに書きなぐった文章をなぞってパソコンに打ちこみ、なんとか形を取り戻す。

私は言葉の力を借りて私を助けることができる。私は言葉の力を借りてあなたを助けることができる。陰陽のコントラストがあまりに過剰なこの土地で、死と絶望と隣り合わせに生と希望が光っている。

2023年3月3日(金)の日記(ぼくは日記を書けない)

こんばんは。お元気ですか。ぼくはとっても元気です。

きょうはお酒をたくさん飲んで、30分で家に着けるはずが電車を寝過ごしては乗り換え、寝過ごしては乗り換え、を繰り返し、家に着くまでに1時間以上かかった。

酔うと眠くなるから、電車で座ってはいけないとおもうのに座ってしまうのは、自分の欲深さをおもい知らされるようです。

飲んでいたのは会社の先輩方とでした。やはり飲み会の場で、恋愛の話は盛り上がる。その人がどのように他者と向きあって、どのような部分に好感を抱き、どのような部分に嫌悪を抱くのか、ということが非常に明確になるし、恋愛の話で盛り上がるのをみるにつれ、どの人も人間の芯の部分、野性的で根源的な過剰さにふれたいのではないか、ということをおもいます。人間の過剰さはときに人間を狂わせ、社会的な規範から逸脱させ、それを人々はおもしろがります。ぼくも、恋愛の話は大好きです。

先輩は、出会い系アプリで知りあった男性とつきあっているそうです。高身長、高学歴、高収入、そして善良、だけど、話がつまらないしたぶん童貞だそうです。つきあって3ヶ月ほどが経つけれど、まだキスはしていない。

不意に、「アプリに関しては先輩だけど、どうなの? どうやっていい人と知りあうの?」と訊かれ、「あれ、ぼくがアプリを使っていることなど話したろうか」とおもったけれど、同時に、「このあいだ酔っ払ったときに話したのだろう」とおもった。

「アプリを使うときのコツはですね」

ぼくは言いました。酔いも手伝って声が大きくなり、電車内に座る人々がぼくらの会話に顔をしかめるのがみえましたが、酔いのせいでそんなことは気になりませんでした。

「目的をはっきりさせることです」

ぼくはたぶん、ドヤ顔をしていたとおもいます。車内に座っている人々の何人かが、マスク越しに「ほう」という顔をしたのがわかりました。

「目的? 結婚して安定したいのか、ただ火遊びしたいのかとか、そういうこと?」

隣で先輩が訊きます。ぼくは、とうに自分の目的とする乗り換え駅を過ぎていましたが、構わず話し続けました。

「ええ。結婚、恋愛、セックス、趣味、同棲。この5つの目的を完璧に切り離して考えることで、自分がどのような目的をもってアプリを使っているのかを明確化させ、それに応じた対応を相手にとることでアプリ使用の満足感を高めることができます」

言いながら、自分でも笑ってしまいそうなほどセミナー口調になっていることがわかりました。が、先輩は赤らんだ顔でぼくをしっかりみつめて、なるほど、と神妙そうにうなずきました。

「先輩はどれですか、どの目的です?」

「ええと、結婚、恋愛、セックス……、あとなんだっけ」

「趣味、同棲、です」

「それなら、結婚、恋愛……、あとセックスと同棲かな。趣味は別にいいや、求めない」

「ほぼ全部じゃないですか」

先輩は目を細め、だって全部欲しいもの、と言った。

「それなら相手を割り振ることは可能ですか? 結婚用の相手、恋愛用の相手、セックス用の相手、同棲する相手」

「えー、同棲する相手と結婚の相手は一緒がいい」

先輩の奥に座る女性が、露骨な嫌悪感を示した一瞥をこちらに寄越した。ぼくはにっこりとその人の顔を微笑んでみつめ、するとすぐに彼女は顔をそむけた。

「それなら配偶者は生活のパートナーとして一緒に住みつつ、セックスと恋愛はほかで楽しむってパターンですね。この目的に定めるだけで、相手かなりみつけやすくなるとおもいますよ」

えー、と言って先輩は笑う。酔うとふたりとも笑い上戸になるタイプだから、くすくすとふたりで笑いあってしまう。

「それってクズ男が寄ってくるパターンじゃん」

「クズ男でもセックスはすごく良ければ、目的に合致してるでしょ」

「なにそれ、男の発想じゃない?」

「生活するのに良さそうな結婚相手を探しつつ、クズ男でセックスがすごくいい人と、セックスとか同棲とかにこだわらずに純粋に恋愛としてときめける相手と会っていく。先輩はこのルートで決まりです」

はははは、と一音一音をはっきり発音するような発声で、先輩は笑いました。

「楽しそうだけど、なんか虚しそう」

あ、私ここで降りるから、と言って先輩は下車しました。ぼくは周囲から決してあたたかくみられていないことを実感しながら、その電車に乗り続けました。

その路線の終点に、昔よく会っていた恋愛用の相手がいました。二年前に彼の家で別れを告げてから、一度も会っていませんでしたが、急に連絡したらどうなるだろう、という悪い考えが頭をよぎりました。

「元気してる?」

LINEの画面をひらいて、送信用の紙飛行機マークさえ押せばメッセージが飛んでいく状態で、ぼくは、結局そのボタンを押せませんでした。

うつらうつらして、何度も乗り過ごしながら家に辿りつき、いまは、こうして、よくわからない日記を書いています。

ときどきおもうんです。あのとき、ぼくがあなたのことを「恋愛用の相手」として決め打ちしなければ、ぼくたちはどうなっていたのだろうと。セックスも生活も、全部一緒くたにあなたに打ちこみますと決めていたなら、いまぼくがいる地点とは、大きくいる場所が変わっていたのだろうかと。

「楽しそうだけど、なんか虚しそう」

先輩が言った言葉が脳内で再生されます。虚しいとは、おもわない。おもわないけど、ぼくはそうやって大事なことのひとつひとつを、ヘンゼルとグレーテルみたいに律儀に一個ずつ、落としていったのかもしれませんね。

この日記を読んだなら連絡をください。また、大事なものを拾い集めましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……とここまで書いたところで、なんでぼくはいつも嘘ばっかり書いてしまうのだろうとおもう。ぼくの日記は日記と書いていながらも事実に即してはおらず、すべての小説がそうであるように自分の体内を通過した言葉であるという時点で100%の真実になってしまい、そういう真実を日記として書き綴っていこうという試みのためこれはこれでしょうがない。

事実に即して書くのであれば、きょうは優しさってどこからくるのだろう、ということを考えていた。ここのところ他人に優しくすることができていなくて、それはつまり、余裕がないからで、余裕がないのは睡眠時間がすくなくて〆切に追われているからなのだということを、わかってはいる、わかってはいるけど、人生なんて常に〆切に追われているものであるからして、〆切に追われているから人に優しくできないのであればそれは根本的に人に優しくてきない人間なのではないかということを考えてしまったりする、うそ。これも指先が吐き続けている嘘。

仕事上の〆切を守れない奴が、守れなかったことに堂々と逆ギレしたりして、でもそんなこと正直ぼくにはどうでもよくて、どうでもいいから優しくできる。優しくできるのって、あれ、どうでもいいから優しくできるのだろうか、そんなはずはない、だって優しさっていうのは対象への知識と配慮と責任と尊重から成るものであるから、どうでもいい相手に優しくできるはずがないのだ。どうでもいい相手には知識もなけりゃ配慮も責任もなく、あるのは無責任な尊重だけだ、それを優しさとは呼ばない。ああまた指先がすべっていく。ぼくは酔っ払っていたらすっ転んでくるくるでんぐり返しを百万遍繰り返すようにこうやってでたらめをいつまででも書き並べられるようだ。

そう。優しさの話。

優しさというのはどこからやってくるのだろう、という話。きっと生命力だ。そうなのだ。ぼくはわかっているのだ。優しくされない人に一方的に優しくし続けることは無理でしょう? 優しくしてくれる人にはいつまでだって優しくできるでしょう? 優しくいられるのは自分が優しいからではなくて周囲が優しいからでしょう? でも優しくいられるのは自分が本質的に優しさを具えているからとも考えられるでしょう? それはつまりすべての人間に優しさは具わっていると考えることでしょう? 暴力が連鎖するのを止めるためにぼくは優しくなりたいとおもったけど、暴力を振るわれ続けるのに優しくし続けるってそれは暴力の連鎖を止めることに繋がるのか不明。結局優しくできるできないは好き嫌いに集約されるのだろうか。暴力をみたまま好き好き言い続けることができたらそれは真に優しい人なのかもしれないがイカレポンチであることはまず間違いない。イカレポンチとは誰だ。ぼくだよ。ぼくがなってやるよ。あれ、それは馬鹿であることとなにが違うのだろう。イカレポンチでどんなもの人間に対しても肯定/否定のスタンスや意見は持ちつつもその相手に対して配慮と尊重をし、自分に対して責任をもつ。馬鹿ではできないことだ。

怒りというのは相手や世界を変えたいと願う熱情だ。現実と理想が乖離していて現実を理想に無理やりねじこもうとすることで発生する爆発的エネルギー。現実を、他人を、無理矢理変えようとすることで変わったことがあっただろうか、ない。ない。いつだって他人は他人のままだったではないか。ぼくは怒りよりも先に悲しみが生まれやすいタイプで、それは相手を変えようとするのではなく、相手がどうやっても変わらないことを知っているからこそ自分もなにも変わろうとしない怠惰がもたらす優しい水たまりである。悲しみは怠惰だ。相手が変わらないからといって自分も変わらないのは怠惰だ。悲しんでいる暇はないのだ。怒りに身を焦がしている暇はないのだ。本当の怒りを、自分の身の内に携えたまま燃え滾らせたまま、自分が変わって、変わって、世界線を飛び越えて笑っていくことでしかその先の世界はみえないだろう。笑うことは世界線を飛び越えること。予測していたものからのずれ。微妙なずれ。完全なずれではもといた世界線を見失うから、微妙にずれて元いた位置とそのずれた位置との距離を笑うのだ。ああ、ぼくは日記すらまともに書けないね。

 

 

 

2月に読んだ本。

千葉雅也『現代思想入門』(ぼくが常日頃追い求めているものは否定神学的な真実Xなのかもしれないですね。)

木崎みつ子『コンジュジ』

高瀬隼子『うるさいこの音の全部』

西加奈子『くもをさがす』

江國香織『ホリー・ガーデン』

 

いま読んでいるのは桐野夏生『燕は戻ってこない』です。

『文学は、単純化された声に対抗するニュアンスと矛盾の住処だ。』とは、スーザン・ソンタグの言です。

Twitterは文学の敵だと、日に日におもいます。おやすみなさい。

2023年2月6日(月)の日記

前の座席に座るこどもが、窓外のホテルが目に入るたび、「ほてるー、ほてるー」と言う。斜めに反射した光がこどものやけに白っぽい顔を窓に映し、私の座る席からもその男の子が窓外をみつめる顔がみえる。

新幹線の窓からは、様々なものが流れていくのがみえる。いくつものマンション、家々、国道沿いの吉野家LIXIL洋服の青山、なにかを形づくる前のあやとりのような何本もの電線、電線路状に立つ細い骨組みの支持物、畑、鏡のような水面をもつ川、また家々、その屋根のソーラーパネル、落葉樹と常緑樹の入り混じった木々。落葉樹のつくるシルエットは、人間の肺を逆さまにしたときに毛細血管だけを取りだしたようだといつもおもう。様々なものが流れていくけれど、視界のほとんどは空で、午後五時の空は地平線のあたりにだけやわらかな紫、曖昧な橙が滲み、そこから青色が広がる。すう、と刷毛で伸ばしたような雲が空全体に立ちこめているから、きょうの空は曖昧でやわらかな表情をしている。遠くにみえている山々が、その距離によって様々な濃度の稜線を描いているのも美しい。私が新幹線に乗るのが好きなのは、きっと空の広い場所が好きだからで、流れていく景色をぼんやりと眺めながらも、いつもそこに空の気配があるのが好きだからだとおもった。

 

新年になってから何冊かの本を読んだ。三島由紀夫仮面の告白』、金原ひとみ『AMEBIC』『オートフィクション』、村上龍限りなく透明に近いブルー』、井戸川射子『この世の喜びよ』。金原ひとみを読むときの文章を追う速さと、井戸川射子を読むときの文章を追う速さは、ぜんぜん違う。小説や作家がもつ速度、というのがある。それは単純に文章を追う速さというのもあるが、それだけではない。村上龍は速度が図抜けて速く、読み終えた後に置いていかれたような気持ちになった。なにもかもかっさらって、それで、私の体だけがここに残る。速いからこそ、その濁流の中で映る一瞬の絵画的な情景がいつまでも目に焼き付く。良いものを読んだとおもい、本屋に行ったとき最新作の『MISSING 失われているもの』を購入した。本屋では、男性作家と女性作家で棚を分けているところも多い。前時代的だとおもう一方で、男性が書くものと女性が書くもので、まとっている気配が異なると感じることはよくある。そのような分け方をする理由も、わかる気はする。世界は常に私のもつフィルターによって映しだされる。大事なのはフィルターを通さないことではない、フィルターを更新しないことだ。

 

いつのまにか「ほてるー、ほてるー」の声は聞こえなくなり、その子はどこかの駅で降りたようだった。窓外の空がこの世ならざる色で覆われている。青と緑のあわい、鮮やかでありながら深く暗い色で透き通っている。陽が落ちて、暗い。山がぐいとこちらに身を乗りだしたように近くみえた。不意にトンネルに入り、自分の顔が窓ガラスに映る。あのこどものように、窓外に見入っている顔。髪を切って、左右を刈り上げた。幼い顔をしている。髪を切ってくれた阿部さんという女性をおもいだす。互いに理由もなく笑いあってしまい、変なつぼに入り、バリカンをもつ彼女に「危ないからやめてください」と言った。「人がつられるような笑い方しますよね」と阿部さんは言った。「それはこっちの台詞です」と私は笑った。阿部さんはきょうも誰かの髪を刈ったのだろうか。

 

祖母の葬式は明日で、実家に帰るのは正月ぶりだけれどなぜか久しぶりに感じる。祖母の顔をおもいだすと、ふにゃふにゃとやわらかな話し声と表情が浮かぶ。いつも、私を背におぶって階段を上ると、「うんう、うんう」と掛け声をだして応援してくれる賢い子だったと私を褒めてくれた。実際は、祖母を励ますためなどではなく、階段を上る度にお腹が圧迫され声がでていただけだとおもうのだが、祖母はいつもそう言った。

 

駅に着き、窓外に映る景色が賑やかになる。TCB、千年の宴、わらわら、酒と和みの肉野菜、Regus、セブンイレブン、ウメ子の家、の看板が光る雑居ビル。二月、午後六時をすぎると途端に夜になる。光が目立つ。車のヘッドライト、テールライト、赤いブレーキランプ、建物の窓から漏れる明かり、駅のホームの白々とした蛍光灯。

すこしして、また景色が流れはじめる。駅を離れると建物は途端になくなり、景色は暗闇に包まれる。どんどん私は近づいていく。私の生まれ育った場所へ。そうして、私の死へと。流れる景色と同様に、時間はどんどん過ぎ去る。真っ暗で景色もほとんどみえないけれど、私は窓ガラスに顔を近づけた。暗闇のなか、なにから発されているかもわからない光が流れ、それをみつめる私の瞳孔へゆっくりと吸いこまれていった。

2023年1月8日(日)の日記(お酒を飲みたい世界線)

高熱をだしてしまったため予定していた三連休の飲み会すべてに不参加となり申した。高熱をだしてしまったため若干頭がらりり申しあげている。らりり申しているついでに新年早々に金原ひとみのらりり小説『AMEBIC』(アミービック)を読んだ。熱で外出できないためECサイトで購入しようとしたのだが、どこも品切れ、ここも品切れ、あっこも品切れ、くそう、こうなったら電子書籍でもなんでもええわい! えええい! ポチ! てな感じでkindleにて無事購入。熱っぽい体と熱っぽい脳みそで、きのう購入して今日読み終えた。

摂食障害の傾向がある女性作家「私」のパソコンには、錯乱状態の「私」が夜な夜な書いた意味不明の文章=錯文が断続的に残されている。翌朝目覚めた「私」は錯文が意味する内容の解読・分析を試みる。担当編集者であり恋人でもある「彼」との関係は、その婚約者である「彼女」と錯文の存在によって漸次的に歪んでゆき、「私」の現実は次第に分裂してゆく……、といった内容。

小学生だか中学生だったころ、『自分の家の鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると徐々に頭がおかしくなり、最後は完全に気が狂う』という都市伝説を聞いて、ひどく恐ろしかったのを思いだした。なにそれめちゃ怖! と当時思ったし、なんなら、いまでも恐ろしい。すぐにでも実行できちゃうところがコワイ。コワスギル、と思って、『鏡 お前は誰だ』で先ほどググってみたら、案の定試してみた系の記事が一番上にでてきて、案の定試した人は気が狂いはしなかったみたいで安心した。この都市伝説のコワイポイントは、発狂は日常すぐのとこ、ほら、あなたの、そこの足元にも、落ちてますよん。なところだし、自己同一性がまだいまよりは不安定だったころに聞いた話だからより一層恐ろしく感じたのだろう。

…… “自己同一性がまだいまよりは不安定だったころ”? 果たして小学生の自分といまの自分とを比較して、自己同一性がより堅固なものとなっているのかの自信はない。そもそも連続体としての自分という存在に疑問を持つ、なんて七面倒なことを大概の人はしないだろうし、これはもう性質の問題だと思う。読書メーターで『AMEBIC』の感想にざっと目を通したが、“理解できない” “読みにくい” 等の感想を抱いている人は、ある種の健やかさがある。これは「俺はわかってるぜー」的な話ではなく、性質の話だ。感覚として、数秒前の自分からいまこの瞬間の自分に移行するあいだに世界線がずれていないという保証はなく、だとしたら「いまこの瞬間」に移行しなかった世界線の自分はいったいどこに? 消失した? 死んだ? 死んだ世界線もあるかもしれない。そもそもずれていない世界線とは? なにをもってなにからのずれとする? もう二度と交わることのできない世界線があるかもしれない。分離してしまったからぼくはそれを知ることすらできない。とても大切だったかもしれないのに、もとはひとつだったのに切断された、大切なぼく自身とはぐれてしまった、伝えたいことがあったとしてももう二度と会うことはできない、さようなら数秒前の自分、と思っている自分ももうはぐれている、はぐれていることすら忘れている、忘れているというか知覚できない、認識できない、いまここにいる自分はなにもわかっていない、なにもわからない、わからない、孤独、孤立、断絶、分離、うわあああああああああ!!(発狂) ……みたいなことをね、感覚として感じるかどうか、みたいな。感覚の問題であり性質の問題であると思うし、これを感じる方が一般的ではないことも自覚はしている。だからこそ、鏡という物質(ぼくには違う世界線の象徴そのもの、具現化そのもの、に思えてしまう)がトリガーとなっている都市伝説をこんだけ恐ろしがる人も珍しいのだろう。ただの鏡じゃん、で済ませられる人が多いのだろうし。熱で若干らりっているとはいえ、この感覚をここまで克明に文章化して思いださせるの凄いよ、金原ひとみ好きだ、うっ……。

 

ああ、お酒のみたいな。

きのうも今日もあしたも、飲み会の予定があったのだ。解熱鎮痛剤(ディパシオとかいうやつ)を1回2錠、1日3回ものんでいるので、お酒を入れるのはさすがによくないのかな、と思うのだ。のだ? こういう部分は結構保守的なのだ。

明日の飲み会はK氏、Pさん、Tくん、ぼく、という、ありそうで実現していなかった夢の(?)ゴールデン(?)メンバー飲み会だったからとても楽しみにしていた。全然、ちょっとくらい熱あっても行けるんだけど、てか割と黙って行こうかな、明日には熱治まってるっしょ! 行けるっしょ! とすら思ってたけど、すこしばかり冷静になり、みんなにウイルス撒いちゃうのどうなの、風邪うつしちゃうのどうなの、それは厭だ、となったから歯を食いしばりながら不参加LINEを打った。K氏はいつも、うんうん、うんうん、とこちらの吐いたまとまりも意味もない話を「購入したてのスポンジか?」と見紛うほどの吸水力をもって聞いてくれるスーパー穏やか人間、かと思いきや数秒沈黙し、にっこり目を細めたまま「え、全然わかんないんだけど」と突如吸った水をすべて吐きだして笑いだすし、PさんはPさんで、うーん、うーん、と哲学的な命題を考えるかのごとく真面目に話を聞いてくれているかと思えば、最後には「ほんと凄い」「ほんとかわいい」と、K氏やぼくを柴犬と勘違いしているみたいにわしゃわしゃする(比喩的にも直接的にも)。K氏Pさんぼくの三人フィールドだと批評性が皆無の天国モード突入しちゃうので、ぼくの中で勝手に、四人飲み会ならTくんがツッコミ役になるのかなあなどと妄想していた。いや、でもなんだかんだTくんも大らかに見守っているお母さんタイプだし、子どもたちがわちゃわちゃしてるのを、あの無表情なネコ科のようなお顔で見ているだけかもしれない。Tくんのあの、表情があまり表にでないんだけどよくよく見ると恥ずかしがっていたり、嬉しそうにしてたり困惑してたりする感じ、好きなんだよな。ネコ科の人(基本無表情)が笑ってるの見るときゅんとしちゃうんだよね。

 

ああ、お酒のみたいな。

昨年のクリスマスイブイブくらいに、昔の恋人と寿司を食べ、バーで酒をのんだ。新宿三丁目の「ナドニエ」という店。友人に教えてもらって、最近よく通っている。「どん底」の姉妹店で、「どん底」に行くよりは落ち着いてのみたいときに使っている。スプモーニ→ダークラムのソーダ割→白ワインと移行したが、ダークラムが驚くほどおいしかった。パンペロのアニヴェルサリオで、こっくりとした甘さとコクがあって香りは豊かなのにキレがよく、後引くおいしさだった。「ラムに苦手意識があるので、払拭したいんです。おすすめのラムありますか」と伝えたら、バーテンダーが選んでくれた。「産地はベネズエラです。糖蜜アメリカに運ぶと、それで得られたお金はなにに使われると思います? 奴隷です。その奴隷がまた、サトウキビ栽培の労働力になるんです。負の三角貿易でしょ」といたずらっぽく教えてくれた。バカルディのラムしか知らなかったから、ラムの味の幅広さに興味が湧いた。ダークラムだったからかもしれないけど、まっったく別物。また別のラム酒ものんでみたい。

スプモーニも最高で、もともとカンパリ党だからというのもあるけれど、トニックウォーターとグレープフルーツの割合が絶妙だからだろうか、飲み口すっきりなのにカンパリ独特の味わいも活きていて、バーの妙!! といった風情。白ワインは正直そこまで、って感じだった。

元恋人はナドニエカクテル→ラフロイグソーダ割→ラフロイグのロック、の順でのんでいた。ラフロイグがうまいうまい、と言ってちびちびしており、ぼくたちも大人になったねえなどと言って楽しんだ。

ああ、お酒のみたい。

 

ウイスキーといえば去年京都でたらふくのんだクライヌリッシュ。「これおいしい! またのみたい!」と言って写真にまで撮った。また飲みたい。そういえばそのときお土産でもらった余市まだのんでない。あしたにでも飲みたい。くうう。

あ、そうか。別に外にはでなくても、家でのめばいいのか、という、緊急事態宣言の初回みたいなことを考える。ああ、でも。絶妙な配合でだされる、様々な種類のカクテルの数々に詠嘆したい、「ナドニエ」行きたい。ナドニエ~、と思って食べログの「ナドニエ」メニューをみる、と、クライヌリッシュあるじゃん。今度絶対頼む。ジントニックも今度頼む。卵リキュールのアドヴォカートを使ったスノーボールも気になる。今度頼む。ショートカクテルもなんか頼みたいな。ああ、お酒のみたい。

お酒の夢が見られますように。おやすみなさい。

2022年10月27日(木)の日記(矯正、強制、共生、狂正)

人の感受性を矯正しないでほしい。言葉は自由のためにあるよ、誰かを閉じ込めるためじゃない。何かと何かのあいだ、虚無をこじ開けてここが私の自由って、俺の自由って、自分のためだけのフィールドを創るために言葉はあるんだ。言葉の中身も信じないで空っぽの枠組みに成り下がったそれを言葉として吐くそれがお前の自由なら、お前の本心だと言うのなら、俺の自由とお前の自由は相容れない。欲望と欲望がぶつかる。本当の自由はどこにあるんだ、それを探究してきたのが人類の歴史。お前と共生できるだろうか、言葉がこじ開ける無敵フィールドを信じたままで。あいつを強制してほしい。俺を矯正してほしい。共生したい。あいつなんかと共生したくない。あいつを矯正してほしい。俺は強制されたい。されたくない。

 

人の感受性を強制しないでほしい。芸術は人間にしかできない営みだから、機械にでもできるものと一緒なわけがないだろう。言葉の枠組みばかりをいくら上手に積み重ねたって、それはガラクタの積み木、スクラップの海、AIが描いた上手な絵。言葉の奥から滲む気配、生物の奥底に眠る恐ろしい気配、それがわからないんなら。わかるだろ。綺麗な絵を見て感動して、綺麗なアニメーションを見て感動して、綺麗な文章を読んで感動して、綺麗な音を聴いて感動していたら、綺麗なものを強制するようになりました。私の世界には綺麗しかあってはならない。お前の心は醜いから、私の心も醜いから、心はあってはならない。綺麗な心ってなんだっけ。綺麗な心を見ても感動できなくなりました。私は矯正されたい。されたくない。

 

人の感受性を共生しないでほしい。毒にも薬にもならないものなら要らない。毒にも薬にもならないものがほしい。どっちでもいいの、んなわけないじゃん。言っちゃいけない言葉を街のまんなかで叫びたい。大声で、耳をつんざくくらいの、大声で。ぼくはどっちかってぇと、地雷を踏むのも拉致られるのもカフェ難民も飯テロも、もともとの言葉の意味が強いからウッてなるけど、ウッてなるかどうかはそのもともとの言葉の意味をどれだけ強く感じるか次第だから慣用句として使われれば使われるほど耳に馴染んで元の言葉から遠い生活をしていればまったく別の意味の方が強くなっていくのは当然の流れだって思う。それと同時に元の意味からそんな遠い場所にいるのってどうなのかな、って思う。耳に馴染むほどに元の言葉の本当の意味から遠ざかるから、飯テロがどんどん使われたらテロがどんどん遠くなるんだろうなって思う。良いとか悪いとかじゃなくて、ただ思う。平和だなって思う、平和かなって思う、地雷ってなくなってないよねって思う、地雷がなくなったらいいなって思う、ウッてなるのはただのぼくの感受性だから、ウッてならせててほしい。ウッてなる自分を守りたいのなら周りの環境からその言葉を消していくしかないし、ウッてなる自分が別に大事じゃないならどんどん適合していけばいい。え、別にぼくは地雷にも飯テロにもウッ、てならないけど。せっかく生まれた言葉を使わせてほしい。使わないでほしい? 使わせてほしい。ああそうですか、ぼくはウッてならないのでどんどん使えばいい。人がロボットにならずに人間として存在する限り、感受性は異なり傷つけ合うんだから、勝手に共生できる前提で話さないでほしい。ぼくは共生されたくない。矯正されたくない。強制されたくない。うそ、たまに強制されたい。でも本当は、共生したい。

 

 

その摩擦で、嬌声をあげる。

 

 

狂うのと正しいのとどっちがいい? 正しいことこそ狂言綺語、狂っているように見えるけれど、どうやらこの世界では数の多い少ないで狂正が決まるらしい。多い方が正しく、少ない方が狂っている。それならぼくらは皆狂っているよ、だって皆孤独だから。

皆さんの公明正大な選挙の結果、多数決で、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂に決まりました!!! 狂っていることこそ正しい。正しいことこそ狂っているね。狂だらけの世界になって、矯正も強制もされないで、早く共生したい。正しく狂っていたい。強制されないことへの恐怖、自由への恐怖、自由への渇望、愛への欲動、それは希望。

 

こうやって生きていること自体、奇跡なんだって思った。朝の満員電車を待つ人々、どれだけ憎いと思ったあいつも、不幸になってほしいと願った人も、ぼくの不幸を願った人も、生きててほしいって、そう祈った。

YUKIのハローグッバイ -LIL SOFT TENNIS Remix- を聞いて高まった朝に。

2022年9月26日(月)の日記(許せない/許さない/許す、最近の出し入れ)

すうっとほそい線を引くように、卸したてのテーブルナイフを左手首からひじの内側のあたりまですべらせる。こそばゆいような、心地よい痛みがゆるやかに流れる。すこし時間差で赤い血がぷっくりうきでる。とぎれとぎれの模様を描いて、その赤の鮮やかさにびっくりする。びっくりするっていうか、予想通りの赤さなんだけど、はっとさせられるみたいな、うっとりする、ってのもちょっとちがうけど、虚をつかれる、みたいな、そんな感じ。あ、ておもってそれから目を逸らせなくなる。生白い腕の内側。部屋のひかりに照らされてつやつやと、きれいな赤。すぐに赤黒くかたまるんだろうから、このまま見ていたかった。いまだけの赤。いまだけの傷。痕は残したくないから、こうして肌の表面は切っても、奥までは切らない。ただ血が見たいのだった。人間の内側。私のきれいな衝動。

 

 

「許す」ってどういうことなんだろうって、最近よくおもう。許すってことは、前段として許せてないことがあるってことで、でも許せないことって許せなくないですか? ぼくの幼少期からの性質として、「しつこい」「頑固」が挙げられるとおもうんですが(知らんがな)、「許せない!」てことがあったとき、「許す」をしちゃうと「許せない!」の自分を殺さなくちゃいけないじゃないですか。ぼくは絶対に自分を殺したくないんですよね。「許せない」のは許さないことで守りたい大切ななにかがあるってことで、その大切はなんなのかをきちんと見極めないうちに許せない自分を殺すことは大切ななにかを守れなくなる可能性を孕んでるから、その大切が本当に大切だったら自分の意志で「許せない」じゃなく「許さない」の選択をしたいから殺さないんですけど、でも「許さない」してると人間的に生活できなかったりなにより自分自身が辛いじゃないですか。「許さない」って気持ちを抱き続けるのって負担だし。だから「許せない」気持ちとも「許さない」を形づくる要因ともはやくバイバーイしたいんですけど、そんで人間には「忘れる」という素晴らしい機能がついているから時間が経つの待つしかないんですけど、かといって大切なものは大切だからすぐには気持ち的にも「許さないけど忘れる」モードには持っていけなくて、「許せないのつらーい!」な状態になるんですよね。最近は「許せないのつらーい!」状態をいかに短くするかが課題です。

話戻るけど、「許せないのつらーい!」状態から徐々に移行するのって、上述した通り「許す」の状態じゃなくて「許さないけど忘れた」の状態なんですけど、でもそうなると「許す」ってなんやねん、てなって、だって「許せないのつらーい!」状態から「許す」になるのって、「え、それ許せないことで守っていたものがよく考えたら大して大切でもなかったな、ってなるパターンじゃん!」て思っちゃうんだよね。それって、「許す」というより、「どうでもいい」に近いじゃん。じゃあ、「許す」てなんだろう、て思う。

 

「許す」って、「許さない」対象と一緒に居続けることなのかもしれない。ぼくにはぼくの大切があって、それは譲れないけれど、その大切を大切にしたままであなたと、お前と、君と一緒にいること。

ぼくが大切にしていることを大切にしたいが故に相手を変形させようとする、のは、相手が相手の大切にしたいことを大切にしたいが故にぼくを変形させること、と対になっている。ぼくが簡単には変われないように相手も簡単には変われない。それでも一緒にいようということ。「許せないのつらーい!」自分を殺さないまま、本当の大切を、誰になにを言われようとされようと守れるように、明確化して、壊れない大切をつくれたら、もっと許せるしもっと楽しくいられるとおもった。なかなかむつかしいけど。

 

許し許されて生きたい。生きることは許すこと。許せないとおもっても同じ地球で生きていればそれは許すことに繋がっているんだっておもった。ぼくにとって大切なことってなんだろう、って、考えたい。ちゃんと感じて生きて考えたい。楽しみたい。

だいたいの許せないことを深掘りすると自分のエゴや幼児性に行き当たるけれどその奥にある優しさはやっぱり大切にしたいことだから、自分のエゴや幼児性に引っ張られて相手を傷つけたりしないように自分の中だけできちんと優しさを大事にしたいなっておもう。怒っちゃうし泣いちゃうけど。近い人にほど怒っちゃうし泣いちゃう。でも怒ったり泣いたり喚いたり叫んだりしても意外と相手は傷ついていなかったりして、そういう傷つかなさにさらに傷ついたり救われたりしちゃうんだろうな。人間のバランスっておもしろくて一緒にいる人とは一緒にいる運命にあるような気がする。いろんな人がきっとそうなんだろうな(逃げるべき人からはちゃんと逃げてね!)。

 

 

10月は大森靖子の新アルバム「超天獄」発売、11月はYUKIの新EP発売&LIVE、12月は大森靖子のLIVE、1月はRina SawayamaのLIVE、3月はBjorkのLIVEとかなり音楽関係が充実の予定。最高のインプットだらけでうれし~やっぴー!

最近出力の方が優先優先で、すこしぐたっと疲れ気味だったため、連休中はすこし小説から離れて入力優先でやってみた。生活(洗濯や掃除や肌の保湿やなんやかや)をして、小説を読み、音楽を聴き、radikoYUKIオールナイトニッポンを聞き、Netflixで “リコリス・リコイル” や “Rick and Morty” を観、横須賀へ小旅行に行って夜のどぶ板通りのドープな雰囲気を味わった。今日は昼間に風呂に入ってYUKIのアルバム “megaphonic” を熱唱、パックをしたままベランダに出てベッドシーツを干したり、植物に水やりをしたり、借りた漫画 “BEASTARS” の6巻までを読んだりした。

横須賀への小旅行のとき、「他人コワイ人間コワイ人間キライ」モードに危うくなりかけたものの、一緒にいる人や、金原ひとみの “ハジケテマザレ” という小説に慰められたりしてなんとか楽しめた(小説が面白過ぎて没頭し、電車を降りる際に購入したばかりの冬物ジャケットを網棚に置き忘れる事件が発生したりもしたのだが)。

野菜をつくっている人も、料理する人も、芸術をつくっている人も、ひろーい意味での「労働」「仕事」が世の中を回してんねやな! ておもったりする。たくさん仕事したい。そしてたくさん他人の仕事の結果を享受したい。いわゆる「仕事」、の方の話じゃなくって。

それにしても。はやくもっと涼しくならないかな、また今日もベランダで蚊に刺された。だいぶ涼しくなってきたけど、夜になっても暑い日がまだある。秋! ぼくのだいすきな秋。 もっとしっかりお顔を見せて欲しい。 秋! ドキドキする秋!

秋らしさがもっと増しますように。おやすみなさい。